2013年8月12日(月)、京都烏丸御池の「Samurai Cafe & Bar SHISHIN(士心)」にて、第十二回字天ナイトを開催いたしました。

当日のライブの、活動報告です。

第十二回目の字天ナイトもまた書家の八木翠月先生にご臨席いただき、小田の「新ことば」を即興で書にしたためていただきました。

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本日に「新ことば」を贈らせていただいたのは、アルナル・トマさんとコンシニ・モード真理子さん。
真理子さんは日本育ちですが、現在はベルギーのブリュッセルでグラフィック関係専攻の勉学中だということです。
アルナルさんはパリ在住であり、工房でガラス作品を制作しておられるということです。
この日は、真理子さんのご両親に会いに、お二人で日本に旅行中に京都に立ち寄ったということでした。

お二人ともアートの分野を専攻されており、芸術的な作品をご希望されました。
そこで、書家の八木翠月先生にお願いして、東洋思想から取った芸術的な字を書いていただきました。




「虚/静」
(きょ/せい)

二つの字はそれぞれ単独で作品として成立していて、なおかつ二つの作品を合わせたときに一つの意味を持ちます。

中国の古典『老子』(または『道徳経』)から、字を採用しました。赤字が引用の箇所です。

致虚極、守静篤。

萬物並作、吾以観復。

夫物芸芸、各復帰其根。帰根曰静、是謂復命。

復命曰常、知常曰明。不知常、妄作凶。

知常容、容乃公。公乃王、王乃天。天乃道、道乃久、没身不殆。

(第16章)

James Leggeによる英訳を並置します。(上の原文の行ごとに、センテンスを区切っています。)赤字が、対応する箇所です。

The (state of) vacancy should be brought to the utmost degree,and that of stillness guarded with unwearying vigour.

All things alike go through their processes of activity, and (then) we see them return (to their original state).

When things (in the vegetable world) have displayed their luxuriant growth, we see each of them return to its root. This returning to their root is what we call the state of stillness; and that stillness may be called a reporting that they have fulfilled their appointed end.

The report of that fulfillment is the regular, unchanging rule. To know that unchanging rule is to be intelligent; not to know it leads to wild movements and evil issues.

The knowledge of that unchanging rule produces a (grand) capacity and forbearance, and that capacity and forbearance lead to a community (of feeling with all things). From this community of feeling comes a kingliness of character; and he who is king-like goes on to be heaven-like. In that likeness to heaven he possesses the Tao. Possessed of the Tao, he endures long; and to the end of his bodily life, is exempt from all danger of decay.

(“Tao Te Ching “ by Lao-tzu, Chapter 16)

『老子』は2000年以上前の古典であり、その詩的なテキストに対して歴史上さまざまな解釈が行われてきました。上の英訳は一つの例であり、これが定まった解釈というわけではありません。『老子』は古代中国で作られたテキストであり、禅(Zen)の思想、道教(Taoism)、詩、書画、俳句などの文化に深い影響を及ぼしました。

」(vacancy, emptiness, void)は、日常的には否定的な意味で用いられる字です。
しかしながら、『老子』の哲学の中においては、むしろ肯定的に捉えられています。
別の章においては、以下のように説かれています。

三十輻共一轂、当其無有車之用。

埏埴以為其器、当其無有器之用。

鑿戸牖以為室、当其無有室之用。

故有之以為利、無之以為用。

(第11章)

[James Leggeの英訳]


The thirty spokes unite in the one nave; but it is on the empty space (for the axle), that the use of the wheel depends.

Clay is fashioned into vessels; but it is on their empty hollowness, that their use depends.

The door and windows are cut out (from the walls) to form an apartment; but it is on the empty space (within), that its use depends.

Therefore, what has a (positive) existence serves for profitable adaptation, and what has not that for (actual) usefulness.

(“Tao Te Ching “, Chapter 11)

ここは、何もない空間 (empty space / hollowness)が物の有用性を保証していることを詩的に説明した、美しい比喩の箇所です。

『老子』の深遠な哲学について説明することは大変に難しいことですが、私は『老子』は単に何もしないこと、何も存在しないことが優れていると主張していたわけでは決してないのではないか、と考えます。むしろ私は、何かが存在しているためには存在の範囲に入らない広大な周囲に囲まれていることが前提としてあり、また何かを言葉や形として表現するためには表現の範囲に入らない広大な周囲を背景としていることが前提としてあり、それらの広大な周囲の世界が無限のエネルギーの源であることを自覚すれば、無限の創造力を得ることができるだろう、と言おうとしているのではないか、と考えます。『老子』は、18世紀フランスの経済思想家たちによって自由放任主義(laissez-faire)の哲学として評価されたこともあるということです。それは、経済は本来的に巨大な活動力を持っているのであるから、政府は「虚」の状態であり続けたほうが経済活動を最も旺盛にするはずだ、という主張のヒントを『老子』のパッセージから得たものであろうと考えられます。

アルナル・トマさんがフランスの工房でガラス作品を制作しておられる、ということを聞いて、何か東洋思想から取った芸術的な一字を贈りたい、と考えました。
それで、書家の八木翠月氏に依頼して、率意の文字で「」を書いていただきました。この「」は、作品を存在させる前提としてある空間であり、またはアイディアの源泉であるべき言葉以前の見えざる世界である。その世界を書で現したとき、一つの芸術作品となりました。

コンシニ・モード真理子さんには、『老子』のパッセージで「虚」の対句となっている「」(stillness)の字を送らせていただきました。
コンシニ・モード真理子さんもまたアートを学ばれておられて、森の緑豊かなイメージに最も惹かれる、とインタビューで伺いました。
そこから、森林の静けさを表す一字として、「」を選びました。
この字も八木翠月氏によって、一作品に仕上げられました。

「虚」と「静」の二作品は、それぞれ単独でも成立するように、仕上げました。
しかし両者は同じ『老子』のフレーズからの引用であり、二つの作品を並べて「虚静(きょせい)」と読むこともできます。

「虚静」の意味を『広辞苑』で引くと、

―心にわだかまりなく、静かにおちついていること。

とあります。「虚静」は、『老子』哲学の中心概念の一つです。


「新ことば」Live字天ナイト at Samurai Cafe & Bar SHISHINは、来月も開催する予定です。
またとない体験を、皆さんもどうかお試しください。初見の方、大歓迎です!