次の日の昼、代々木駅のバスターミナルから、仙台に向かった。

この前の週はゴールデンウィークであったが、その最初の頃に関越自動車道で早朝に大きなバス事故があった。

バスの運転手は、伝え聞くところによると中国系の帰化人で、日雇い契約としてその日のバスの運転を請け負っていたという。

これも伝え聞くところによると、彼は本来睡眠時間に取ってあるべきホテル滞在の時間に、別の中国人のツアー客の仕事を取るために営業をしていた、それが原因となって、バス時間に睡眠時間が足りずに居眠りをしてしまったらしい。

私は、その報道を聞いたときに、「そりゃあ金が欲しければ、睡眠時間も削るだろうなあ」と思った。「帰化人で倫理観がないから、こんな事故になったのだ」とか言う主張には、私は与(くみ)しない。アルバイトの運転手を雇って料金を安くしたのであれば、その価格設定自体が事故のリスク込みだったのであろう。安全だと思い込んで事故に会ってしまった人々は、なんとも気の毒である。

 

道中は、司馬遼太郎の『燃えよ剣』を取り上げて読んでいた。

私は司馬先生の紀行文が最も好きなのだが、小説はあまり好きでない。大学生時代にいくつかの小説を取り上げて読んだとき、彼の説明過剰な文体が文章に躍動感を失わせていると感じて、退屈を覚えた。

だが、この『燃えよ剣』は、結構によい。司馬先生は根が理知的な作家なので、理知的でない登場人物を描いた作品であれば、地語りの説明と登場人物の飛躍とが適度に対比されて、文章が生きている。土方歳三や坂本龍馬が司馬小説によって生きる人物像で、河井継之介や大村益次郎では陰と陰の相乗となって鬱陶しくなる。そんなことを思いながら、バスは東京を出る。

 

東北自動車道を走るバスから振り向いて、ぎょっとした。

バスは埼玉県のすでに奥深くに入っているはずなのに、悪夢のような銀色の塔が、東京方面に午後の陽に照らされてにょっきりと聳え立っていた。世間では、スカイツリーと呼んでいるらしい。その勇姿に賛嘆するというよりも、私の最初の印象は70年代特撮映画の不気味な宇宙怪獣が、地上に現れた姿に見えた。

 

羽生インターチェンジ付近で、利根川を渡った。

この上流に来て、この広い流れだ。大河であることがわかる。韓国の川も広々と美しいが、この利根川の流れる風景も、決して美しさでは劣らないだろう。別段に観光名所ではないが、関東平野の当たり前の風景が、そのままで美しい。

 

バスは那須高原を過ぎて、福島県に入った。天気は、あいにく曇が多い。

やがて、雪を残した山々の姿が、曇り空の中に見えた。

関西地方では見ることができない、火山の山肌が曇り空の夕方に暗く映し出されていた。

つまり、福島県の火山である、磐梯山周辺の山々であろう。近い山が安達太良山で、遠い山が吾妻山であろうか。

ゆるやかな傾斜をした野原が、両側に広々と見える。その向こうに、円錐形の山々が残雪をわずかに残している。一見して、豊かな田園地帯であることが分かる。

しかし、それは見かけだけである。

この地域の農業は、今後立ち直ることができるのだろうか。

私は、今回の旅行では福島県を外した。私の性分として、軽い気分の旅行になりそうもないからである。地震と津波の災害は忌まわしいが、過去の時代に日本を襲った大地震や大津波と、2011年の災害とは、根元の性質が違っている。破壊の規模としては、幕末の安政大地震や大正時代の関東大震災のほうが今回よりも大規模であったし、1995年の阪神淡路大震災の破壊も悲惨であった。しかしながら、これら過去の大災害は、過ぎてしまえば短期間のうちに復興した。時代ごとの日本人がせっせと働いて工業力を動員して、短い期間で悲惨を更新することができた。

しかしながら、今回の悲惨は、短い期間で終わりそうにない。

原発事故をこうむった地域の汚染は、いつ終わるのか分からない。チェルノブイリ事故が起こったのは私が高校生の時分であったが、それから30年近くが経った今になっても、土地は汚染され続けている。これから長い間日本が引きずっていかなければならない災害である点で、今回の原発事故は、日本の歴史上で前代未聞のことである。私も自分の力で出来る限りこの問題について考えてみたいが、とても過去の災害からの復興を例に出して、明るい展望を開く気にはなれそうにない。過去の日本の災害とは、問題の次元が違っている。

 

バスは、夕方遅くに仙台駅西口に着いた。

「いいですね、仙台へゆけて」

と、出発のとき、三十代の義妹にうらやましがられた。彼女は、雑誌の写真などで仙台駅前の景観をみていて、かねがねゆきたいとおもっていたそうだ。

私は、体をうごかして、この景観を楽しもうと思い、朝食の注文をしたまま、ホテルの玄関を出、すぐ側にある階段をへて宙空の路面へのぼった。

(『街道をゆく 仙台・石巻』より)

仙台駅西口の「歩行者回廊」を、司馬先生は激賞しておられる。

その駅前に、出た。

大地震の日以降に報道で繰り返されたとおり、この仙台駅も大きな破壊をこうむった。だが、1年余り経った今訪れたとき、少なくとも駅前の風景を見る限り、震災の傷跡を確かめることはできない。バスが仙台市内を通る最中に、たまに損傷した屋根瓦の部分をビニールシートで覆った民家があった。それは阪神淡路大震災の後しばらくの間、神戸や大阪で見られた風景と、そっくり同じであった。しかし仙台駅西口の「歩行者回廊」から見た市街は、損傷一つ見ることができない。

「歩行者回廊」の上を、歩いた。散歩ではなくて、今夜宿泊するホテルがある花京院町に向かうために、通りに出るためである。

なるほど、これはよい施設だ。駅前に集まる道路の上をくまなく歩道が網羅していて、信号や歩道橋に煩わされることもなく、目指す方向にどこにでもストレスなく向かうことができる。きっと、司馬先生は大阪のキタの街を暗に想定して、「仙台に比べて大阪のキタは、、、」と言いたかったのであろう、と想像した。この仙台駅西口と大阪のキタは、街の質がよく似ている。両者ともに道路が集中していて、道路の間はビルで埋め尽くされている。それが仙台では「歩行者回廊」を使えば、見通しのよい歩道を伝って目指す方向に自由に歩くことができる。一方大阪のキタで地上を歩くならば、いつの間にか方向感覚を失って迷宮に入ったかのように迷ってしまう。キタの街で仙台の「歩行者回廊」に匹敵するものといえば、梅田地下街であろう。しかし梅田地下街は、地上に輪をかけたような迷宮となっていて、歩く人を迷わせるばかりである。

仙台の街並みは、歴史を感じさせることはない。この都市もまた、空襲で焼き尽くされた後に作られた、戦後時代の都市である。戦後時代の都市という範囲内では、日本の中で最も綺麗な都市の一つではないだろうか。美しい建物がある、という意味で言っているのではない。単に、醜悪な建物が極力控えられている、という意味で私は言っている。私は、東北地方の中心都市として、もっと「がんばろう東北」とか「がんばれ日本」とかのお定まりの看板や宣伝文句が、街中にあふれ出ているのだろう、と来る前は思い込んでいた。しかしながら、私が翌日郊外まで赴いたときでさえ、そのような宣伝文句を見かけることは、意外に少なかった。この都市の人々の、都会的な自制心とでも、いうべきであろうか。

(小田 光男)