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昨日の晩は、ホテルに入ったまま何もせず。

国内旅行では、一人で夜に飲んだり食べたりしに行こうという気が起こらない。

この日曜日に東京に入ってから、ここまでかなりのハードスケジュールで来たので、体を休めることにした。次の日は、大いに歩かなければならない。

朝7時半、ホテルが出したスーパーで1袋98円で買って来たようなロールパンに、ゆで卵が付いた大ざっぱな朝食を食べてから、仙台駅に向かう。

西口バスループの6番から、400系統のバスに乗った。

このバスは仙台市若林区荒浜方面に向かうのであるが、現在のところ途中の笹新田までしかバス路線が復旧していない。

仙台湾の海岸沿いに宮城郡の蒲生・荒浜および岡田村の端郷である荒浜、名取郡の井土浜・藤塚浜の五ヶ村(浜)がある。うち荒浜・井土浜・藤塚浜では、海岸線に沿って走る浜堤(ひんてい)上に集落を形成していた。これらの村では半農半漁の生活が営まれており、浜堤背後の低湿な平地に水田が広がっていた。(仙台市編さん委員会『仙台市史 通史編5近世3』より)

仙台東部の沖積平野では上級藩士による大規模な新田開発が行われ、その際、開発地の中心に足軽の集住する集落を整備した。名取郡飯田村の下飯田、宮城郡荒井村の藤田新田・笹新田、苦竹村の新田、蒲生村の和田新田がその例である。(同)

とりあえず仙台市編さんの歴史書で行き先を調べてみたが、まさに江戸時代に全国各地で広がった新田の歴史を辿った土地であるようだ。鍬を入れて畔を開けば、将来が開ける。そんな時代が、確かに仙台東郊が開拓された頃にあったはずだ。

仙台の歴史は、いうまでもなく伊達政宗(号して貞山[ていざん]、1567-1636)から始まる。正宗が、彼の封土である仙台藩の中心都市として、青葉城下の街作りを企画した。

戦国時代の歴史ファンならば、正宗の軌跡はよくご存知のことであろう。彼の戦国武将としての華やかな国取り時代は、20代で早くも頂点に達して、その直後に強制的に終わらされてしまった。彼が東北で暴れまわっていた頃には、すでに西の方では信長と秀吉によってあらかた天下平定の道筋は付けられていた。秀吉が小田原の北條氏攻略の軍を進めたとき、政宗はこれ以上戦国大名として勝ち抜きゲームの戦を続けることは、できなくなった。政宗は、戦い取った会津を没収され、後に伊達氏発祥の地である福島県北部と山形県米沢地方も返上しなければならなかった。豊臣政権と、それを受け継いだ徳川幕府によって安堵された62万石の土地に腰を据えて政務を取る拠点として選ばれたのが、この仙台であった。

戦国時代の領主たちは、防御のやりやすさを重視して山中の要害に拠点を築いていた。

それを改めさせたのは、秀吉であった。

秀吉は毛利氏に対して、山深い吉田郡山を捨てて広島に政治の拠点を移すように薦めた。北條氏滅亡の後に関八州を与えられた家康には、小田原よりも経済的に発展性が見込める江戸に拠点を置くように薦めた。

戦乱の時代は終わり、経済の時代が始まった。現代日本の都市のほとんどは、秀吉・家康の時代以降に形成されている。

もし彼らの時代に「隣村は敵だから殺し合いをする」という地生えの秩序感に上から蓋をされなかったならば、おそらく日本は東南アジア諸国のように部分ごとに植民地化されていたであろう。

江戸時代になっても日本人の気象は相変わらず荒っぽかったが、徳川政権が上から秩序を作ることに成功していたために、統一と活力を適度に兼ね備えた時代を作ることができた。

私は、かつての東アジア社会と日本を分けたのは、江戸時代以降の日本が統一と活力を兼ね備えた社会を持つことができた結果であろう、と個人的に思う。これほどの戦乱から平和への急変は、東アジアでは古代中国の戦国時代から秦漢帝国への移行期か、あるいは朝鮮半島の三国時代から統一新羅への移行期にだけ見られた現象だと思う。

 さて若い政宗もまた、中央の政治に触れたとき、きっと時代が変わったことを悟ったに違いない。政宗が青葉城に拠点を移したのは関が原の戦の直後であるが、この秀吉時代から徳川幕府初期の時代に、日本の県庁所在地の大半の歴史が始まっている。この仙台市のある仙台平野は、古代から多賀城が築かれたぐらいで農業の適地であった。しかし、この平野の富を集めて都市を築こうと試みたのは、当時のニューウェーブであった。米の上に築かれている都市が、現代日本のほとんどの大都市の発祥である。第二次大戦後、1970年代ごろには「新産業都市」という名前で、当時の時代に応じた都市の基盤を謳い上げていた。

今は、2012年になった。

農業も、工業も、日本の将来を託すに怪しくなった。

バスは、当たり前のように定刻に着いた。満員だ。

通学通勤時間にこのブラブラとした旅行者が乗り合わせて、何を思う?

(小田 光男)