DSCN0162

塩竃神社は、急峻な石階段の上にある。

鳥居の前も、なかなかに面白い。

右側には、明治天皇の行幸碑が高々とあった。

東北鎮護塩竃神社

明治三十三年五月建石

と書かれている。明治三十三年は、西暦1900年である。中国で義和団事件が勃発した年であり、4年後に大日本帝国はロシアと戦争を始めた。かつての時代の日本は、極東に深入りしていた。日露戦争で勝ち取った(と、国民は信じていた)朝鮮・満州を我が物にすることが、日本の対外政策の最優先課題となり、結局それが仇となって満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争に突き進んだ。結果、大日本帝国は終わった。戦後、日本は一転して極東に背を向けて、アメリカに深く叩頭する政治路線を取った。取り続けて、70年近くが経った。今、日本の経済はすでにアメリカよりも極東との取引高が上回るようになった。つまり、経済的には再び転換点に差し掛かっている。この時代をどのように乗り切るべきか、日本の政治と国民の意思は、いまだにはっきりしていない。東北地方は極東の地図で言えば、北方の巨人ロシアとの前線にある。この行幸碑は、ロシアへの視線がなかったと言えば、うそであろう。しかし世界地図的に視野を拡張すれば、夏涼しくて冬に雪の降る、アジアではまれな観光地の一つとなりえるであろう。

幕末のフランス人、ジュール・ブリュネ(1838-1911)が塩竃神社を描いたスケッチのレプリカが、説明と共に置かれていた。

ブリュネは、幕末の江戸幕府に対してフランスが派遣した軍事顧問団の一人で、砲兵大尉であった。徳川慶喜が明治政府に降伏した後、榎本武揚は降伏せずに幕府艦隊を率いて江戸から北に向かった。その艦隊に、ブリュネたちは従っていた。艦隊は、奥羽越列藩同盟の盟主と言うべき、仙台藩に立ち寄った。神社の前に置かれているブリュネのスケッチは、この時のものである。結局のところ、榎本やブリュネは仙台を立ち去って蝦夷地に向かい、ここで独立国を宣言して軍事的かつ外交的に活路を見出そうとした。彼らや土方歳三、大鳥圭介らが打ち立てた「蝦夷共和国」の短い歴史は、多くの史書に書かれている。だから、この旅行記で繰り返すこともなかろう。

ブリュネのスケッチを見れば、塩竃神社の石階段や石灯篭は、江戸時代のままである。門前には多くの家並みがあって、昔からこの神社がにぎわっていたことが分かる。

下から見上げた神社の杜は森閑として清潔で、下卑たところがない。古社の風格が、十分である。

長い石段を、登った。

(小田 光男)