これから、電車を使うことにした。

足が疲れているというわけでは、決してなかった。自信過剰ではなく、まだ歩き続けることはできた。

しかし、塩竃神社が気に入ったせいで午後の長い時間滞在したおかげで、塩竃の市街地に戻ってきたときには、もう午後3時を回っていた。日が沈むまでに、さらに松島に行きたかったので、ここからは電車を使うことにした。

仙石線の本塩竃駅から、電車に乗った。全部の再開にまだ至っていないこの沿岸部を走る路線であるが、この駅はすでに営業している。だが、駅の中は応急措置が施された状態に留まっていた。

電車を待っている間、ホームにいたおばちゃんが携帯で話していた。家族と話しているようだ。

その言葉は、私が学生時代に親しかった、福島県中通り地方から東京の大学に来た友人のアクセントを思い出させた。私も、40代になった。彼とは学生時代以降会っていないが、今は同じ40代のはずだ。下の世代たちから見れば、古い訛(なま)りを残している世代なのであろうか。

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車窓から、松島の風景が見えた。

美しいのであろうか。

まあ、美しいのだろう。

今日は、日が悪い。午後になって、この辺りは曇ってきた。風景が、なんだか冴えない。

去年の夏(2011年)、私は午後に広島電鉄宇品線に乗って、広島港から客船で松山港までを旅した。

そのとき見た瀬戸内海の風景は、日本の美景として世界に薦めてもよいと思ったほどに、輝いていた。

梅雨明けの海を船が島々を縫って進み、島々は海から生えてきたかのように立って緑で、海と空は青かった。夕焼けの中で、松山港に船が入った。旅が終わった、と私は思った。旅愁を思わせる風景とは、このようなものであろうか、と思った。

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今日の松島は、私にとって日が悪かったようだ。

本来ならば芭蕉、魯迅から司馬遼太郎先生に至るまで、訪れた人々の印象記について感動的に語るべきなのであろうが、大して書く気になれない。天気のせいであろう。そういうことにしよう。

ただ、司馬先生がこの地を訪れたときに目に付いた、「松島や ああ松島や 松島や」とかいうフレーズは、見渡したところ目に付かなかった。

それに、松島で情けなくおもうのは、ほうぼうの看板や説明用の掲示板に書かれている芭蕉作という俳句であろう。

松島や ああ松島や 松島や

落語の大家さんが、熊公を前にして作りそうな句で、おそらく江戸期のたれであったか、、、芭蕉もたまったものではない。(『街道をゆく 仙台・石巻』より)

このフレーズがどのくらい蔓延しているか確かめてみようと思ったのであるが、私が見た限り確かめることができなかった。ひょっとしたら、先生の上の出版物がプレッシャーとなって、この旅行記が書かれてからから27年の間に消えたのであろうか?それは、よく分からない。なくなったからと言って、惜しむ心も私には起こらない。ただ曇り空の松島は、浜辺で海産物の焼き物とかを売っている、瀬戸内海と変わらない風景であるなあ、と思っただけであった。この松島も津波の被害を受けたが、店や旅館は復興していた。ただ、島へ渡る橋だけは、流されたまま復元されていない。

しかしこうやって歩いてみると、ここには仙台という都会があって、塩竃という歴史のある神社があって、松島という海を楽しむ地区がある。

地元の人たちは、この三つが何ものにも変えがたく愛着があるのだろうな、などと、今日の旅の終着点に着いて思った。

都会、歴史、海(または水)。

この三つが揃っている地区は、住民の満足度が高いのかもしれない。

そんなヤクタイもない都市論を、初夏で夕暮れの遅い曇り空の松島で、考えた。