弘前は、城下町である。

津軽氏の城下町として、慶長年間(1596-1615)に築城が行われた。それまでは弘前市の郊外にある大浦城や堀越城を拠点としていた津軽氏(大浦氏)が、関が原の合戦後に弘前を拠点と定めて、城と城下町が作られた。

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築城を企画したのは、この銅像の戦国武将である。

津軽(大浦)為信。弘前城の東門に、この銅像が立っている。この武将のエピソードについての考察は、司馬遼太郎先生が『街道をゆく 北のまほろば』の中で、十分に語っておられる。だから、私が今さら付け加えることなど、何もない。

以降、江戸時代を通じて津軽藩は、弘前城を拠点として現在の青森県の西側三分の二を版図として(残る東側三分の一は南部藩の支領で、小南部地方である)明治維新に至った。

石高は、当初4万6000石。文化五年(1808)まで、おおむねこの石高として幕府に扱われていた。

もちろん、青森県の三分の二を支配する大藩が、こんな低い石高のはずがない。幕末の頃には、おそらくこの十倍近い実高であったのではないか。5万石足らずという表の石高は、あくまで関が原の頃の計測値であるはずだ。つまり津軽は、江戸時代初期にはほとんど未開拓の地であった、ということがこの低すぎる石高から透けて見えるだろう。

文化五年に、幕府によって高直しが行われて、弘前藩は10万石となった。江戸時代は大名の家格が権威として厳格に差別された時代であり、10万石の大名として従四位下、江戸城大広間詰めに格上げされた。

もっともこの格上げの真の目的は、蝦夷地防衛の人員を藩に割り振るためであった。この頃、ロシアが樺太・千島を南下する勢いが盛んとなり、蝦夷地で日本の権益と接触することが年を追うごとに激しくなっていた。そこで幕府は、それまで蝦夷地を一手に管理していた松前藩から現在の北海道以北を取り上げ(東蝦夷地1799年、西蝦夷地1807年)、ここを直轄地として経営を強化する方針を立てた。津軽藩が10万石に格上げされたちょうど翌年の文化六年(1809)、幕府は東北諸藩に蝦夷地への出兵を命じた。幕府はあくまでも日本最大の大名であって、直轄地は国内の要地を占めていたものの、より広大な全国の各地方は各藩の支配するところであった。なので、辺地の防衛はこのように各藩の力を借りるより他はなかったのである。津軽藩ら東北諸藩は、ペリー艦隊の来航より半世紀ほど前に、西洋の勢力と対峙する幕府の手伝いをしていた経験が、あったのである。

雑談ついでに話を進めると、どうして東北の諸藩は、会津藩を除いて、どの藩も幕末の動乱時代に目立った動きをしなかったのであろうか。

幕末は、言うまでもなく嘉永六年(1853)のペリー艦隊来航から始まる。その後に井伊直弼の大老就任があり、安政の大獄(1858)、桜田門外の変(1860)が続いて、日本は動乱時代となった。

文久二年(1862)、薩摩藩の島津久光が、上洛した。江戸時代、各藩の藩主は参勤交代で京都に入城しないという掟があった。幕府は各藩が勝手に京都の朝廷と結託して天皇を担ぎ上げることを恐れたのであって、そのための禁令が250年続いていた。それを、久光は薩摩藩主の父親であり藩の最高指導者として、事実上破ったのであった。久光は、朝廷と列強との攘夷の件について、直接意見交換をすることまでした。久光の行為は世の尊皇攘夷論者を大いに活気付け、京都に志士とよばれるアウトローたちがぞくぞくと集まり始めた。幕府もまた志士の世論に対抗するために、こちらこそが尊王であるという反対世論の工作を行うために京都で朝廷に深入りしていった。

こうして文久年間以降、日本政治の中心は江戸から突如として京都に移った。

翌文久三年には将軍家茂までが上洛して、京都の朝廷との関係強化を演出せざるをえなくなった。以降、明治元年(1868)の明治天皇東京遷幸に至るまでの約五年の間に、日本の政治は幕藩体制から明治新政府へと一変した。この間に幕府、薩摩藩、長州藩、土佐藩らは京都で激しい主導権争いを行い、情勢は文字通り一日ごとに変化していった。

この間、東北諸藩では会津藩だけが、京都の政争に巻き込まれていた。会津は幕府守護を藩是としていた藩であって、幕末の文久二年に藩主松平容保が京都守護職を幕府から命じられて、京都で幕府側の武力装置として働いた。これは、幕府側からの要請に応じたのであった。

しかし、会津以外の他の東北諸藩は、いっこうに京都の政治のために動こうとした気配が見えない。仙台藩、盛岡藩、庄内藩、秋田藩、それに津軽藩はいずれも堂々たる大藩であった。しかし薩・長・土ら西国諸藩の人々の華々しい活躍に比べると、藩の上層部についても下層の志士たちについても、行動に大きく見劣りがする。わずかに庄内藩出身の志士である清河八郎が、幕末の一風雲児として輝いているぐらいである。

会津を除く東北諸藩が明治維新史に現れるのは、江戸開城後の明治元年になって結成された奥羽越列藩同盟になってからであった。すでに革命が終わってからもはや潰れた幕府側に立って行動を起こしたわけで、遅すぎる。そのため、東北諸藩は軒並み新政府から白眼視される憂き目を見てしまった。会津藩士は荒涼とした下北半島に斗南藩(となみはん)という小藩を作らされて、流刑のように追われた。藩都の会津若松は、新しく生まれた福島県の県庁所在地とされなかった。仙台藩は、一関を削られた。盛岡藩は、小南部を青森県に吸収された。そして津軽藩は、小南部と合併して弘前から青森に県庁所在地を移すこととなった。

東北諸藩と西国諸藩に、どうして差が付いたのか?

結局のところ私が思うに、幕末の文久二年以降の情勢が京都であまりに激しく動きすぎたために、東北諸藩は情報戦で付いていけなかったことが原因ではなかったか。

東北諸藩から京都は、遠すぎる。地理的にも文化的にも、京都や大坂のある上方(かみがた)は東北から遠い。他方、江戸のある関東は、地理誌的にいって東北と地続きである。

他方西国の諸藩は、経済的にいやおうなしに上方と繋がりがあった。人の往来も、幕末以前からあった。幕末に東北諸藩と西国諸藩を分けたのは、上方との近さ遠さがあったのではないか、と私は思うところである。

幕府が安泰だった時代には、日本の政治は江戸を中心に回っていた。東北諸藩は江戸屋敷で情報を集めていれば、それで十分だと幕末になっても高をくくっていたのではないだろうか。幕末のたった五年ほどの間、京都に人を送らなかったことが、東北諸藩を革命から遅らせることになってしまった。ただ、それだけのことであったように思う。

東北諸藩にも、もとより人はいたに相違ない。仙台藩は、蘭学の一中心であった。また明治維新以降には、会津藩士や南部藩士から政治・学芸などで多数の人材が輩出された。だからもし東北地方が上方に近かったならば、あるいは幕末の政治が従来どおり江戸を中心として回っていたならば、東北諸藩の活動は違ったものとなっていたのではないだろうか?

まことに、日本史は面白い。

(小田 光男)