今日は、足の力が続くところまで歩くことにしたい。

私は、国内旅行でも国外旅行でも、訪れたところを歩き尽くすことに最低1日は費やすことにしている。

香港では、香港島の山道に分け入って、イギリス時代に掘られた貯水池のほとりを訪れた。香港という不毛の岩地の上に建てられた植民都市が、水というインフラからイギリスによってゼロから造営された都市であることを知り、東洋の辺境にすら無から大都市を築き上げたかつての大英帝国のダイナミズムに、目を開かされる思いがした。

台北では、かつての中心街であった大稻埕(だいとうてい)と、郊外の士林(しりん)を歩いた。大稻埕にある孔子廟は、日本統治時代に隣接する福建省から職人を呼んで建設された。現在でも、当時の100年近く前に大陸で作られた椅子が、観光客のために座席として使われていた。私は、座った椅子が年代ものであることについて、それが何も特別な家具でもないかのようにガイドの女性から軽い調子で聞かされて、不覚にも笑ってしまった。これが日本の寺院であったならば、ガイドがもったいぶって重々しく説明したことであろう。(この女性との出会いは、私の台湾旅行で最も印象に残った。彼女が語ってくれた自らの経歴は、台湾の歴史そして華僑となった漢族の歴史そのままであった。)

韓国の釜山では、繁華街のチャガルチから橋を渡って、沖に突き出た島の影島(ヨンド)の先端まで歩いた。影島はかつては絶影島(チョリョンド)と呼ばれて、日本の対馬から眺めたときに真っ先に見える、南に突き出た島である。在日の半島人たちにとって、この島影は望郷の幻であると、私は司馬遼太郎先生の紀行文で読んでいた。しかしながら、私が2009年に歩いた「絶影島」は、早春の光にあふれた、緑が多く海が青い快適な都市近郊の楽園であった。釣りを楽しむ人がいた。島の周囲には綺麗な遊歩道が作られていて(韓国人は歩くのがレジャーとして大好きな国民で、遊歩道はどこでも大変に立派に作られている)、私はそこを島の先端の太宗台(テジョンデ)まで歩いた。私が歩いた韓国の道の印象は、明るさに満ちている。韓国は司馬先生の時代から変わったことを、私は歩きながら感じ取ったものだ。

というわけで、この東北旅行では仙台の沿岸から、北を目指して歩いている。

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もっと沿岸部を歩こうかと初めは考えていたが、道路がどこまで地図のとおりにつながっているのか目測では分からず、また工事の邪魔となってもよくないと思ったので、次第に海から離れていく県道に沿って、歩いていった。七北田(ななきた)川を渡った辺りまで来れば、津波の被害は見た目には感じられない。

キリンビール工場の脇を通り、仙台港の施設を遠巻きに眺めながら、仙台市から多賀城市に入った。多賀城は歩くルートから少々外れているので、今日は行くことを断念した。司馬先生の『街道をゆく』では訪れていて、藤原朝獦(ふじわらのあさかり)の建立であると伝えられる、「多賀城碑」について書かれている。伝が本当ならば、奈良時代の碑であるということになるが、疑問も多い。この碑については、『街道をゆく』の説明で十分であろう。

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道の両脇に、ショッピングセンターが現れた。

近年、この様式の建物が全国で急速に増えている。

広大な敷地に各種の店舗を全て揃えて、買い物から食事に映画鑑賞まで、ここに来れば一日中一通りの娯楽が楽しめるように設計されている。巨大なショッピングセンターの周囲は各種のレストランや付属的な買い物店が集められて、完全な一商店街である。

もし、江戸時代の旅行家がここを通りがかったならば、何と記録するだろうか。高山彦九郎でも吉田松陰でもきっと、

-街道は商賈(しょうこ)の大廛(だいてん)、軒を並ぶ。殷賑(いんしん)たり。

などと書いたに違いない。今や、人が買い物をしに訪れるべき場所は、このような大資本が用意した商店街に取って代わられようとしている。

伝統的な商店街では、たちうちができない。大資本だからできる的確で品切れのない品揃え、正確で年中無休の営業時間、社員教育された人当たりのより顧客対応、当たり外れのない安心できるサービス。どれを取っても、おじちゃんおばちゃんの個人商店の集まりである駅前の商店街では、用意することなどできそうにない。経済の論理から言えば、昭和時代の商店街は日本から消滅していく運命にあるのだろう。

この多賀城市の道沿いにあるショッピングセンターは、奈良の大和郡山市の道沿いにある風景と、全く同じである。、四国の松山市郊外の道沿いを訪れたときにも、同様の風景を見た。今や、全国おしなべて、このとおりの風景が広がっていると思われる。

これは、風景の砂漠化とでも、言うべきなのであろうか。

多賀城市を、通り過ぎた。

 (小田 光男)