学生を降ろすと、バスにはもうほとんど乗客がいない。

今日は、仙台市の海岸部から北上して、北の塩竃・松島まで歩けるだけ歩こうと、旅行する前から企画していた。幸いにも雨の心配もなかったので、私はバスの行き着くところまで、今乗っている。

手元の記録によると、午前8時33分に笹新田のバス停で、下車した。

この系統のバスは、現在のところここまでしか通っていない。それから先は、大地震以降に運行を休止させたままである。

海の方向に向けて、歩いた。

この辺から先は海岸まで、集落の間に田が広がっている。仙台市の中心からそれほど離れてはいない郊外であるが、全くの農村地帯である。

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道沿いの田に近づいてみると、ぷんと潮の匂いがした。

海沿いだから潮の匂いがしてもおかしくはないのかもしれないが、田の上にぞんざいに溜まった水をのぞいたとき、この春の季節にしては水の中に生物の気配がなくて、全く死んだ水であった。海水が残した塩分が、まだ消えていないのであろうか。この地区の田畑は、津波で一面が海水に洗われたはずだ。それから1年が経った。だが、現在この地区の田をどのような方向で復旧させようとしているのかについては、十分な知識がないので今は何とも答えることができない。ともかくも、歩いていく。

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向こうに見えるのは、海岸に沿って植わっていた松林の残骸である。県道から向こうは、撤去作業を行っている作業員の他に、人影はない。看板などを見ると、この地区は仙台市によって危険区域に指定されているようである。かつて人家があった場所には、土台のコンクリートだけが存在している。ときに上部まで残っている家屋もあるが、その中身は誰も住んでおらず、地区全体がもぬけの殻となっていた。県道沿いのガソリンスタンドは、津波の力を受けて鉄製の屋根がめくれ上がっている無残な姿のまま、いまだに立っている。もちろん、営業をしていない。地区を写したもっとショッキングな写真も手元にあるのだが、無残すぎてここに掲載するには、忍びない。

ところどころに、鉄塔が据え立てられている。

それぞれの鉄塔の先端から四本の綱が地上に向けてテント状に支える形で伸ばされていて、綱に小さな黄色い布切れが、いくつもくくり付けられていた。そこには、人々のメッセージが書かれていた。地区の復興を祈って、有志の方々がチベットの石塔のようにメッセージを結んで置いているのであろう。

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「貞山運河」まで歩いた。

この名称は、伊達政宗の号である貞山(ていざん)にちなんで後世になって付けられた。

江戸時代から建造が始まった、仙台藩の沿岸部に沿って作られた運河の遺跡である。その規模はじつに雄大で、最終的に掘られた運河は、北東の石巻市から始まってずんずんと南西に向かい、仙台市を掘り抜いて岩沼市の阿武隈川河口まで開かれた。今私が立っているのは、七北田(ななきた)川より南の仙台市内の部分であるが、この辺りはわりかし歴史が新しくて明治時代以降の開削であるという。

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運河の最大の目的は、仙台藩の米を港に積み出して、江戸に運ぶことにあった。

河村瑞賢(1617?-1699)が江戸幕府の命を受けて阿武隈川河口の荒浜港から江戸までの米の直送に成功して「東廻り航路」を開拓した。以降、仙台藩の米はますます高まる江戸の米需要を、江戸時代を通じて支え続けた。司馬遼太郎先生は、こうして仙台藩が江戸への米輸出に過度に経済を依存しすぎたために、この大藩が米作以外の目ぼしい産品の開発に熱心となることもなく、西国諸藩のような商品経済への取り組みが遅れる原因となった、と批評しておられる。おそらく、その通りであろう。その仙台藩の主要港は、北東の石巻港と南西の阿武隈川河畔の荒浜港であった。いわゆる貞山運河は、仙台平野で収穫された米を仙台湾の荒れる海に船を浮かべる危険を犯すことなく両港に運び込むことが、建設の狙いであった。(今私がいる地区の名前も荒浜であるが、江戸時代の港の荒浜港はここよりずっと南にある。)

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私はその運河の一角に立ったのであるが、海岸に植えられた松林は、津波の前は美しかったのであろう。この辺は、地図で見ると海水浴場であったようだ。建物は土台だけが残り、松林は周囲の破壊に取り残されて疎らに立っている。さっきも言ったように、この地区は市によって危険区域に指定されているようで、現在は復興に取り掛かるよりも前に、いつか再度訪れるかもしれない大津波への対策が先行されているのであろうか。

死も破壊も、いたましい。私はかつて阪神淡路大震災があった時に、関西の政令指定都市の市役所に勤めていた。私が住んでいた南大阪の実家は、早朝に数秒間激しく揺れたものの、被害はなかった。阪神淡路大震災は直下型地震であったので、震源地から離れると急速に被害は少なくなったのが、私の住んでいた南大阪には幸いした。地震直下の神戸市から阪神地区の被害は、甚大であった。

役所としては、その日以降各地の被害に対策を行うことで、一色となった。兵庫県に自宅がある同僚も多くいて、自分が大きな被害を受けた人も当然少なからずいた。

あの頃は、震災を受けて、皆が暗かったのであろうか。

今から思い返すと、不思議とそのような暗さばかりであったようには、思い出すことができない。地震の直後は大慌てで、それから後は、ただ時が過ぎていった。いつの間にか、表面上は元通りになった。ああやっていつの間にか忘れてしまうことを、復興というのであろうか。ならば、この目の前の破壊も、いつか時が過ぎて過去のものとなるのであろうか。私は、ひょっとして残酷なことを言っているのであろうか。

だが今回の大震災は、阪神淡路大震災と違った面がある。

一つは、破壊が広い範囲に渡っていて、そのために最大の被害が農村と漁村であるということである。阪神淡路大震災の破壊は都市部に集中していたので、経済的基盤の裏づけがあったから、復興はまだしも急速であった。今回の破壊は、日本の過疎化と高齢化が進む地域に襲来した。その点が、違っている。

二つは、放射能汚染がある。これについて、阪神淡路大震災は無縁であった。放射能による土地の汚染は、津波による塩水の汚染よりもはるかに深刻であり、果たして土地が元通りになるのかどうかすら、今の時点で定かでない。復興と言いながら、復興できるかどうか不明な現状では、汚染された地域では明るい展望を持ちようがない。

私は、破壊された海岸の地区を歩いて考えながら、簡単に明るくなれそうもなかった。

江戸時代ならば、農業や漁業は当時の日本経済の主要産業であった。

だから、幕末の安政大地震が起こした大津波により沿岸の村々が壊滅的な破壊が起こっても、短期間で復興することがができたはずだ。留まって被害から復興させることが、住民たちにとって生活の糧を取り戻すための最適の手段であったはずだ。そして何よりも、村々には復興のための働き手がいた。

都市化が容赦なく進行している今の時代に、これらの被害地をどうやって復興すればよいのだろうか。


 
ここから後は、改めて仙台市の都市計画について調べ直してから、書いている。

JR仙台駅から東側にかけての市東部は、市の都市計画構想に基づいて従来から市街化が抑制されて、農地のまま残されてきた経過がある。
現在も仙台市の人口は大都市集中傾向が続いて増加しているが、その主要な増加人口の容れ先はむしろ西方の丘陵に拓かれた新興住宅地帯であり続けている。
仙台市東部がほとんど農村地帯として残されているのは、都市の周囲にグリーンベルト地帯を作るという都市計画的な理由によるということである。ゆえに上に書いた第一印象は、仙台市郊外については訂正しなければならない。

だから仙台市東部の沿岸部の復興プランは、都市計画の論理で行うべきだ、という行政の意志は、突拍子もない話ではないことになる。そういった行政の意志は、今のような非常時においては、個々の住民たちの論理と矛盾することが多くあるであろう。ここから先は、政治をする者の決断である。

(小田 光男)