「塩竃」が、この市の正しい字として使われている。

簡単に「塩釜」と書くことも多い。

この街の名前の由来は、市街地の裏手の山にある塩竃神社である。宮城県下では、初詣の人数が一番多いという。だから、仙台人にとってもなじみの深い神社であろう。この神社を、当面の目標地として向かっている。

この塩竃の市街地も、例によって津波の被害を受けた。

JR本塩竃駅の前にはいくつか店があったが、営業していないところが目立つ。津波で店を壊されて、その後を片付けたまま再開できていない。

時間は、正午を過ぎていた。

駅前の定食屋は再開していたが、あいにく今日は休みであった。

その店の入り口の柱の横に、説明が付いていた。

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当日、この柱が黒くなっているところまで津波が押し寄せたという。

前に立って測ってみると、私の顎(あご)上のところに一番上の黒い線があった。

私の身長は165cmだから、駅前では150cm近くの津波があったということになるだろう。女性や子供では、完全に頭まで浸かってしまう。私ですら、建物の二階に避難しなかったならば確実に溺れて流されていたであろう。これでも東北各地の沿岸部を襲った津波の高さとしては、それほど甚だしいものではなかった。しかし、駅前の地区や港は、見たところまだ復興していないようだ。

開店していた、別の定食屋に入った。

先に本町(もとまち)通りに行きたいと思っていたが、場所がよく分からなかった。それで、店員さんに聞いた。次の信号を曲がって右側にあるという。

定食は、白飯に味噌汁、小アジのフライに野菜炒めであった。

アジのフライは、からりと揚がって千切りキャベツに乗っかっていた。

だからどうした、というべきほどのメニューではない。

しかし、こうしてサクサクと衣を揚げて出てくる魚のフライが旅行先で普通に得られる国は、日本の他にどこがあるだろうか?

韓国・ソウルの新村(シンチョン)は見事な教会があって、学生たちが溢れる魅惑的な街である。

しかし、そこの定食屋で出された「トンカス」は、日本のトンカツとは別の次元のものであった。韓国で食べたから私は許したが、日本の定食屋でトンカツを頼んで「トンカス」が出てきたら、私はその店に二度と行かない。サクサクとした衣のフライを揚げるなどは日本の定食屋では当たり前のテクニックであるはずだが、そのテクニックはどうやら世界中で共有されていないようだ。こうして定食屋で小アジのフライの上に醤油をたらしてキャベツと共に食べることが当たり前にできることは、今の日本に残された「よかった探し」の一つである。食い物というインフラに関しては、日本は自国の優位を疑ってはいけない。

お茶を一服して、また注ぎ足してもらった。

同じ韓国の釜山の冷麺(ネンミョン)店に入ったとき、やかんとコップが出てきた。お茶が入っているのだろう、と思って、注いで飲んだ。

なんと、鶏ガラスープであった。仰天してしまった。

韓国には、緑茶を飲む習慣がなくなってしまった。

どうしてなくなってしまったのかという理由は、韓国朝鮮史の最後の王朝に当る李氏朝鮮(イッシチョソン)の歴史にある。李氏朝鮮に先立つ高麗(コリョ)王朝は、仏教の篤い保護者であった。その高麗はモンゴル帝国の侵略に屈し、王族はモンゴル名をもらって属国化してしまった。しかし中国で朱元璋がモンゴルの支配を破って明王朝を建てたとき(1368年)、朝鮮半島でも後ろ盾を喪った高麗王朝は間もなく李成桂(イ・ソンゲ)によって倒され、李氏朝鮮王朝に取って代わられた(1392年)。李氏朝鮮王朝は、前の高麗王朝が庇護していたものを、全て否定した。その最大の標的が、仏教であった。数多くあった仏教寺院は廃されて、都市からほとんど姿を消した。仏教は、僧と寺院と共に、山奥で細々と生き延びることだけを許された。高麗仏教は、中国の禅の影響を受けて、喫茶の習慣を持っていた。日本でも同時代に栄西(えいさい、ようさい)が中国留学から帰国して、藤原氏が彼のために京都祇園に寄進した建仁寺の境内で、持ち帰った茶の木の栽培を初めた。これが、日本で喫茶の習慣が取り入れられる最初であった。だが李氏朝鮮は、仏教を排斥するときに、喫茶の習慣まで根絶やしにした。こうして、朝鮮半島では茶が食文化から消えてしまった。茶は、中国・日本はもちろんのことモンゴルやチベットでも文化の中で愛好されているが、朝鮮半島だけは受け入れない歴史をたどったのは、不思議なことである。

ともかく、お茶は醤油とかと同じく日本が発祥ではないのだが、すっかり日本文化の中で心の落ち着け先というか、これが食卓に上るとほっとさせるシンボルの一つとなっている。日本の食卓のよさは、こうして外国から食文化を貪欲に取り寄せてメニューを豊かにして、しかも固有の文化的味わいを保ち続けているところにある。世界中を見回しても、日本ほど世界各国の料理を文化の中に取り入れている国は、おそらくないはずだ。

定食屋を出て、本町(もとまち)通りに向かった。ここにある御釜神社(おかまじんじゃ)が、目的である。