車が、本町通りの商店街に入った。両側がアーケードになっていて、中央の道路は車で混雑していた。
(『街道をゆく 仙台・石巻』より)

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と、昭和60年(1985年)にこの本町(もとまち)通りを訪れた司馬遼太郎先生は書いておられるが、今日訪れた本町商店街には、アーケードは見当たらなかった。

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豪壮な土蔵の建物が、目に付いた。

浦霞(佐浦酒造)の、本店であった。

今見える建物は新社屋だということであるが、門前町の風景を引き締めていて、じつに見栄えがする。

江戸時代、酒や醤油を醸す醸造業は、取引の大きさとして最大規模の製造業の一つであった。毎年採れる米のかなりの部分が、酒に変えられて各地で消費されていた。

江戸時代の農民は米を作っていたにも関わらず米を食べることができなかった、という主張がある。現在この主張は、「貧農史観」などと揶揄されている。

つまり、それほどの米を年貢として搾り取っていたのならば、いったい誰が消費したのか?輸出でもしていたのか?輸出していたのでないならば、国内で消費していたはずであろう。では人口の圧倒的多数を占めていた農民が米を消費していなかったとすれば、需要と供給の辻褄が合わないではないか。このような論理で、「貧農史観」は近年ほとんど論破されているように見える。

しかし、私はちょっと視点を変えてみたい。

米は、全部が飯として食べられていたのではない。

そのかなりの部分が、加工食品として消費されていたはずである。

とりわけ、米が酒に変わった量は、醸造の中心地であった上方だけでも膨大なものであった。農民たちは、毎日汗水たらして農作業を行っていたが、日々の娯楽として酒を飲まなかったはずがない。飯としては麦などを食っていても、酒は米から造った日本酒であったに違いない。むしろ、飯なんか麦でも粟(あわ)でも稗(ひえ)でも構わないから、米の酒だけ旨ければそれで今日を生きてゆける、というのがお百姓さんたちの本音だったのではなかろうか?江戸時代では飢饉で米の収穫量が減ったとしても、相変わらず酒は造られ続けていた。幕府は、だから酒造りを抑制しようと試みた(そしてうまくいかなかった)ぐらいであった。

貧しくて暮らしが単純であればあるほど、娯楽は酒とセックスぐらいしかなくなるものである。だから酒は消費され、人口は増え続けた。こんなことを考えるのは、私が飯よりも酒のほうが好きだから来る、偏向なのであろうか。だが万一もしこれが真実であったとするならば、さすがに小中学生に歴史として教えるのは、ちとはばかられるだろうが、、、

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社屋の前に門が作りつけられていたのが、印象的であった。

説明板が脇に付いていたので、引用する。

法蓮寺の向拝

向拝(こうはい)とは、神社仏閣の本堂の正面階段上などにあって、屋根がせり出した部分を言い、ここから参拝者が本尊に向かい礼拝したことからこう呼ばれた。ここ浦霞(うらがすみ)醸造元㈱佐浦の社屋玄関の向拝は、かつて鹽竃神社(しおがまじんじゃ)の別当寺(べっとうじ)として大きな勢力をほこった法蓮寺(ほうれんじ)の向拝を移築したものである。
法蓮寺は、鹽竃神社の神宮寺(じんぐうじ)として室町時代に創建され、江戸時代には、仙台藩の祈願寺として広壮な伽藍(がらん)を有していた。(中略)しかし明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって法蓮寺は廃寺となり、勝画楼を残して諸堂はとり毀され、仏像、仏具、経巻などと共に悉(ことごと)く分散、散逸してしまった。
この時、法蓮寺の向拝は、南宮(多賀城市)の慈雲寺(じうんじ)が譲り受け、同寺の本堂玄関として移築されることになった。その後この向拝は本堂とともに存続してきたが、平成十八年に本堂が立て替えられることになり、向拝も一緒に解体、廃棄されることになった。
我々はその歴史的価値に鑑み、これを保存すべく、慈雲寺のご同意を得て、この向拝を譲り受けることにした。そして塩竃市民グループのボランティア支援を受けて、解体された部材を塩竃に移送、保管した。
その後我々は、向拝のよりよい保存活用法を検討し、かつて法蓮寺があった裏坂を望む本町中心部において多くの人々の目に触れ、江戸時代中期から御神酒酒屋(おみきさかや)として鹽竃神社とも関わりが深い佐浦酒造新築社屋の玄関として移築活用するのが最もふさわしいとの結論に至った。そして同社のご賛同とご協力を得て、百三十年余の歳月を超え、法蓮寺の向拝が再びここ塩竃の地に移ることになった。

平成二十年十月
NPOみなとしほがま

つまり、数年前に地元有志の力で復活した、古くて新しい風景である。

すこしだけ補足的に説明すると、江戸時代までの日本では、寺と神社は明確に区別されていなかった。神仏習合の信仰思想が江戸時代までは一般的であり、仏教の仏は日本の神の姿としても現れて、これを権現(ごんげん)と称していた。また日本の神である八幡(はちまん)もまた仏教化して、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)などと尊称されていた。例として京都の八坂神社は現在スサノヲノミコトを祭る神社であるが、江戸時代までは「祇園寺」とも呼ばれて、神社でもあり寺でもあると認識されていた。

著名な神社には、この法蓮寺と塩竃神社(説明板では、旧字体を使って「鹽竃」と表記されている)との関係のように、神宮寺と呼ばれる寺院が附属していた。著名な神社の神宮寺の規模は、この法蓮寺もまたそうであったように、ときとして壮大なものであった。

それが、明治維新の廃仏毀釈によって、一変した。京都の「祇園寺」などは寺であることをやめて、神社に純粋化 – むしろ、改ざんされたと言ってもよいかもしれない – した。そうして、寺関係の施設や仏像を廃棄してしまった。その跡地は、現在円山公園の敷地に変わっている。同様のことは、全国各地で現在「神社」として認められているところでも行われた。ここ塩竃神社では江戸時代まで法蓮寺が神宮寺として並列していたのであるが、寺は廃されて「神社」に純粋化させられた。そうして説明にもあるように、寺関係の文化財は、散逸してしまった。この明治維新直後に全国で巻き起こった文化財の破壊活動は、戦争によるものではなくて狂った思想によるものという意味で、あるいは中国の文化大革命による文化財破壊にも比べることができるだろう。両者ともに狂気は一時的なものであり、後世の人間はなぜそんなことが起こったのかさえ理解することが難しく、あるいは過去にそんなことが起こったことを、忘れている。

塩竃神社の門前町には、御神酒を造った店が今もこうして銘酒の銘柄として続いている。その店の前には、有志の努力で寺の向拝がこうして時代を超えて戻ってきた。さすがの、由緒ある街である。

(小田 光男)