朝のバスは、ほぼ9割が制服姿の学生たちだった。

バスは駅前から南に向かっていった。

ビルの立ち並ぶ通りの向こうに、緑の丘が見える。

伊達家代々の墓所がある、大年寺山であろう。新緑の色が、朝の忙しい空気を洗うようにすがすがしい。

仙台は、北、西、南に山と丘を擁して、間を広瀬川が流れる。東は海にまで続く平地となっている。海はほど近いところにあるのだが、市内中心部にいると海の気配を感じることはない。大都市であっても、こうして山と川が近くにあるだけで、町並みに潤いがある。伊達政宗がこの地を政治の中心に選んだのは、じつに卓見な風水的感覚であった。

バスはやがて東方向に折れて、海側に向かった。

皆が学校まで乗り続けるようで、混雑はそのままである。

乗っていたのは主に高校生であったが、彼女たちの言葉に訛りはない。むしろ綺麗な標準語である。東日本アクセント地帯だから、標準語を困難なくマスターできるのであろう。

-日本史のテスト、結果最低。蜻蛉日記(かげろうにっき)の作者忘れちゃって、藤原道綱の「姉」って書いた。

なんていう会話を、横で聞いていた。十六夜日記(いざよいにっき)は以前に読んでなかなか面白いと思ったが、蜻蛉日記は、あまり印象に残っていない。

-で、六歌仙を挙げろ、っていう問題出されて、日記の人が在原業平っていうのは分かったけれど、後が書けなかった。、、、

などという会話を聞きながら、自分で六歌仙を挙げてみようと頭に思い浮かべてみたが、、、分からない。高校時代の私は世界史を選択していたので、このような日本史の受験知識について、あんまりよく知らない。思いつくままに中古時代の歌人を挙げてみる。紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、和泉式部、、、この辺だろうか。いや、六歌仙には奈良時代の歌人も入っているのだろうか、ならば大伴家持、山部赤人あたりが入っているのかもしれない。いくら考えても、前に意識して覚えたわけではないから、正解は出ない。結局後で調べたところ、どれも外れていた。在原業平の他は、小野小町、文屋康秀、喜撰法師、僧正遍照、大友黒主であった。何の意味もない、知識だ。この六名を高校時代に丸覚えしたとしても、後の人生で役に立つ可能性は、全くないと言ってもよい。文学や歴史の研究を志す者さえ知っていればよい知識など、学生が丸覚えしても教養にすらならない。それよりも、百人一首の句を十首でも暗記させたほうが、教養としてましではないか。高校の歴史の授業ではいまだに私の高校時代と変わらず人生の役に立たない丸暗記などさせていることを知って、日本の教育の進歩のなさにため息が出た。

バス停で、学生たちが一挙に降りた。

保春院前と案内された。ここに伊達政宗の生母義姫(よしひめ)、落飾して保春院(ほしゅんいん)の墓がある。

義姫と子の政宗との葛藤劇は、政宗の生涯をドラマ化して描くときには外すことができない複雑な色合いを帯びている。義姫が次男の小次郎に伊達家を継がせるために政宗を毒殺しようとしたこと、そして政宗はかえって小次郎を斬って自分の地位を守ったことなどは、よく知られているエピソードである。資料的に言えば事件の真相はドラマほどにはっきりとはしないようであるが、義姫はその後生家の最上家に出戻った後、江戸開府から後に最上家が没落してからは政宗のいる仙台に再び落ち着いた。彼女は大坂の陣の後まで生き、元和九年(1623)に他界した。子の政宗は、そのときすでに老年であった。

戦国大名の姫たちの伝記はそれぞれが波乱万丈であるが、義姫もまた生家の最上家と嫁ぎ先の伊達家との間にあって、大いに波風の多い生涯であったようだ。

(小田 光男)