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着いた青森の街は、天気が悪かったせいもあって、淋しく思えた。

そもそもの街の起こりは、港町である。

江戸時代の初期に、津軽藩がもと善知鳥(うとう)という地名であった外が浜沿いの入り江に港を築いて町割りをしたところから、青森は始まった。江戸時代には、港町としてにぎわっていた。明治維新の廃藩置県によって、もと津軽藩の領地と「小南部」と呼ばれていた南部藩北部の広大な支藩が合併されて、青森県が生まれた。そのとき、地理的に両藩の中間にある青森が県庁所在地に選ばれて、ついでに県名にまでなった。青森県は、明治政府が江戸時代の地域区分を無視して人口的に作った県の一つである。

私は東京の大学にいたのであるが、同じサークルの一員に小南部出身の者がいて、私が関西アクセントのままで日常会話を続けていたことが気に障ったのだろう。「東京で訛り言葉を使うな!」と怒られた。

私が当時使っていた言葉は、アクセントだけは関西弁を多少残してはいたが、文字にすれば標準語となるべきものであった。私の周囲には同じ関西出身の者たちが多くいたが、彼らは無理して東京アクセントを用いていた。だが、ネイティブに比べてあまりにも滑稽で板についていなかった。私は彼らをせせら笑い、私は自分のできる範囲内で言葉遣いを「郷に入れば郷に従え」的に矯正していたつもりであった。

それが、小南部出身の彼に、怒られた。私は、腸(はらわた)が煮えくり返った。滑稽な二流の使い手になるぐらいならばむしろ自然体でいるほうがよいではないか、それが分からぬ、奴隷根性の持ち主めが!と腹を立てた。

彼にとって見れば、同じイナカモノのくせして花の東京で我が物顔で訛りを使っている関西人が、心中許せなかったのかもしれない。小南部の人たちにとって、関西はイメージも沸かない、辺境のイナカにすぎない。彼らにとって都会は、東京以外にありえない。そのくせに、関西人はイナカモノらしくおとなしくせず、東京にいても顔がでかい。彼はそのために関西人の代表に見えた私に対して、腹を立てたのだろうか。おそらく彼は、血のにじむ思いで地元の訛りを矯正し、東京語を用いていたのであろう。事情は理解できるが、しかしそれでも釈然としなかった。

小南部出身の彼との出会いは、不幸であった。(まあ、その後も長く付き合ったのであるが。)

津軽出身の人としては、同じ大学時代に学習塾の講師をやっていた人と、しばらくお付き合いさせていただいた。結局私は教え方があまりに下手で、塾を追放されて終わったのであったが。

彼は骨格のすぐれた巨体の持ち主で、しかし性格は豪快というわけではなくて、むしろ皮肉的であった。大学の博士課程にいて、生計のために塾講師をしていたのであったが、世間知らずの学究者というわけでもなくて、博士課程までハマッてしまったから後戻りできねえ、といった半ばフテクサレた境地で淡々と学問とアルバイトをこなしていた。

私との間にあまり話題は広がることもなかったが、ただ酒はよく飲んだ。彼は自称漫画好きで、これからヒットするであろう漫画を必ず当てることができる、などと自慢していた。実は私も当時はその特技を持っているとひそかに自慢していたので、彼の学術本と漫画に埋め尽くされていた部屋で話題にしようと思ったのであったが、よく聞けば彼の好みはヤングマガジンとか漫画アクションとかのアダルト系であった。私はもうちょっとオタ臭いモーニングとかアフタヌーンとかが当時の好みであったので、結局あまり話題が広がらず、酒に戻ることにした。今の時代しか知らない人にはピンと来ないかも知れないが、当時の20年前ではオタクといえば極めて変態的なニュアンスを持っていたので、本当は漫画やアニメとかが好きであっても芸術とか社会論とかに絡めて、学生たるものほんのささいな趣味の一角として語らなければならなかった。もしあの時、私と相手の趣味の漫画が合っていたことが分かったとしても、きっと気恥ずかしくてそれ以上話を続けることはしなかったであろう。

二人とも東京の北区にアパートがあったのであるが、飛鳥山だったかの公園で、身欠きニシンを肴に「桃川」の酒を飲ませてもらったことなんかを、思い出す。また東十条の駅前に「津軽そば」の屋台が出ていて、しばしばそこで酒の後に食った。津軽そばのだしは、東京のそばに比べると淡いものであった。カラオケでは、新沼健二の『津軽恋女』を必ず歌った。津軽人としては、他郷人の前で歌うのは礼儀と思ったか、必ず歌っていた。あと吉幾三については、『酒よ』に限ってこれも必ず歌った。吉幾三の他の曲は、決して歌わなかった。彼は、弘前が故郷であったと、記憶している。

そんな人たちを思い出しながら、今日の昼は津軽そばではなくて駅前の帆立貝ラーメンなどを食べていた。かつての青森は青函連絡船の発着点で、『津軽海峡冬景色』に歌われたように、北海道へ帰る人たちが必ず立ち寄る街であった。今は青函連絡船も廃止となり、県庁所在地として行政都市の意味合いが強くなっている。新幹線の駅は新青森駅に作られて、青森駅は在来線が通るだけである。

まず、今日は三内丸山遺跡に行くことにした。

遺跡は、市の郊外である。バスで行けば、すぐに行くことができる。

(小田 光男)